曹洞宗と禅を楽しむ1

曹洞宗と禅を楽しむ1

曹洞宗と禅を楽しむ1

この記事ではFaceBookの曹洞宗と禅を楽しむグループで加藤方丈様が書かれている記事で私が感銘を受けたものを備忘を兼ねて転載させて頂きます。(許可を得ています)
戒名(4/5)
俗名は、欲望、怒り腹立ち、迷い苦しみ「俗世」のままの名前です。
戒名は、三宝に帰依し、仏戒を授かり、俗世の迷いをキッパリ断ち切った「仏弟子」としての名前です。合掌

「花祭り」4/8

4月8日は「花祭り」釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)です。
花祭りは、釈尊降誕会と言い、お釈迦様がお生まれになった日、つまりお釈迦様の誕生日です。
紀元前560年ごろの春、父をカピラバストウ国釈迦族の王スッドーダナ、母をマーヤー妃として4月8日朝、生まれられたのがシッタルダー太子、後のお釈迦様です。
マーヤー妃は、お産のため実家に帰る途中、保養に立ち寄ったルンビニーという美しい果樹庭園で、無憂樹の赤い花を手折ろうとその手をあげたとたん、妃の腋の下からお釈迦様が誕生されたと言われています。
しかし、このお産に無理があったのか、太子を生んでわずか七日後に、母マーヤー妃は世を去り、太子はマーヤー妃の妹であるマハージャパテイに養育されました。
もう一つ有名なのが、お釈迦様は生まれてすぐに七歩進み、右手を上げて天を指し、左手を下げて地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたという伝説(後世の仏弟子達によって創られた話)です。
「天上天下唯我独尊」とは、他人と自分をくらべて「自分ひとりがこの世で一番尊い」ということではありません。
本当の意味は「他人であれ、自分であれ、人間としてこの世に生まれ出て来ることができて、しかも生命が今自分に宿っているということは、何ものにも代えがたい尊い事実である」と言う意味で「この世のすべての生きとし生けるものすべてにやどっている生命一つ一つが等しく尊い」ということをお釈迦様は2500年前にさとされたのです。
甘茶をかけるのは、お釈迦様誕生の時、天から二匹の龍が降り、甘露(かんろ)の雨をふらせ、お釈迦様に産湯をつかわせ洗い浄めたという言い伝えによるものです。
4月8日は「いのちを尊重する日」として、お釈迦様の誕生を心よりお祝い致しましょう。合掌 m(_ _)m

「莫妄想」(4/7)親に勝る神仏なし(4/9)

「莫妄想」
(妄想するなかれ!)
禅の悟りは・・ちっぽけな「自分の殻」(執着)を打ち破り、闊達自在な心になることです。合掌

親に勝る神仏なし4/9
神仏(かみほとけ)拝まん先に、親(おや)拝め、親に勝る神仏なし。
信仰の第一歩は、先ず「素直な心」で親に手を合わせることです。
それが出来ずして、他の神仏を拝んでも、正しい信仰にはなりません。
先祖から尊い命のバトンタッチがなされて「今日の自分」が在ることを忘れてはなりません。
親から子へ子から孫へと「命のバトンタッチ」は私たちに課せられた大事な使命です。
謙虚な心を忘れず、今日も明るく元気に頑張りましょう。合掌 m(_ _)m

唯識(一切の物事はそれを認識する心の現れだとする考え方。)4/11 定命(じょうみょう)4/9

仏教(唯識)では・・
「六根」(眼、耳、鼻、舌、身、意)
「六感」(観、聴、香、味、触、心)の他に
「七感」の末那識(まなしき)
「八感」の阿頼耶識(あらやしき)が説かれています。合掌

定命(じょうみょう)4/9
「寿命」とは「死ぬまで生きる」という意味です。
仏教では、これを「定命」(じょうみょう)と言います。
生きたくても生きられない、死にたくても死なれない・・生まれる前から既に「定まった命」のことを言います。合掌

「只管打坐」(4/12) 釈尊(釈迦の尊称)4/14

曹洞宗の坐禅「只管打坐」(しかんたざ)は、瞑想や悟りを求める坐禅ではありません。
「調身、調息、調心」姿勢を正し、呼吸を調え、心静かな「坐禅」そのものが悟りの姿です。
迷わず悟らず心穏やかに「今を大切に生きる!」それが曹洞宗の教えです。

釈尊(釈迦の尊称)4/14
釈尊は・・
1、綺語(お世辞)
2、両舌(二枚舌)
3、悪口(非難、中傷)
4、妄語(嘘)
この4つの口業を口の悪として律せられました。
最上の善いことばを語れ。
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
自分が口にしたことを忘れても、言われた相手は忘れないこともあります。言葉はとても大切ですね。合掌 m(_ _)m

瓦を磨いて鏡と作す4/16

禅語に「瓦を磨いて鏡と作す」という言葉があります。
これは、達磨さまから七代目の祖師に南嶽懐譲(なんがくえじょう)さまという方がおられました。
その弟子に馬祖道一(ばそどういつ)さまがおられます。
馬祖さまは、もう十年余りもひたすら坐禅三昧の日々を続けていました。
ある時、師匠の南嶽さまは馬祖さまに、こう尋ねます。
「おまえは、坐禅をして何を図(かく)するのか?」
「作仏(さぶつ)を図する」と、馬祖さまは答えます。
仏になろうと図るのです。
すると、師匠は、そばに落ちていた瓦を拾って石でごしごしと磨き始めました。
「お師匠さま、瓦など磨いてどうするのですか?」
「瓦を磨いて鏡をつくるのだ!」
「瓦を磨いて鏡になるのでしょうか? いくら磨いても鏡にはならないでしょう!」
その時、師匠の南嶽さまは、こう言われました。
「坐禅をして仏になれるか!?」と・・
この話の真意は「坐禅を悟り手段にしてならない!」ということです。
一般的に、坐禅をして幸せになろうとか、健康になろうとか、悩みを吹き飛ばそうなどと所得を求めがちですが、そんな妄想に振り回されず「瓦は瓦なり、自分は自分なりに、無欲無心で、ただひたすらに坐る!」
無所得、無所悟、不染汚(ふぜんな)の修証・・それが、曹洞宗の坐禅です。合掌 m(_ _)m

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