父のこと

父のこと

9月の暑い日

9月の暑い日、母親から連絡があり、駆けつけると、
父はもう半身不随の状態であった。
すぐに救急車で病院に連れて行った。

「脳梗塞です」 医師は言った。
「心臓の血栓が、脳の血管に詰まったのです」

「直る見込みはあるのですか?」

私は医師に縋り付くように言った。

「難しいでしょう・・回復は。たとえ血栓が無くなっても、
その先は壊死してしまうのです。回復は見込めません」

その医師はいともたやすく話した。
私は、深く沈黙した。

植物状態となり、何も意思の疎通は図れないまでも、父は生き続けていた。
そのうち、最初は熱心にリハビリしてくれていた病院からも、
治る見込みは薄いので、老人病院に転院して欲しいと言われることになった。

私は渋々承諾せざるおえなかった。

その老人病院は、八王子の田舎にあり、転院にあたり、
老人病院の院長と私が面談することになった。

「ご自宅で、看ることはできないんですか?」

と最初に院長は言った。

「ここの病院は、よく看てくれると聞いていたので・・」

私は、前の病院のケースワーカーに言えと言われたことを言った。

「違うでしょう、ご自分では看ることができないので、
この病院に来たと違いますか?そうなんでしょう?」

私は大声を出した

「自分で診られれば、誰が!誰が自分の父親を好き好んで
この病院に入れますか!自分の親父なんですよ! 私の・・・」

支離滅裂な答えであったが、連日の介護疲れもあり、
そう言って、人目を憚らず私は激怒しながら泣いてしまった私を
院長はじっと見ていた。

しばらくして院長は突然こう静かに言った。

「この病院は、設備は大したことないですが。最善を尽くします」
「何か、 ご希望はありますか?」

慈父のように、その院長は微笑んだ。
院長は、最初に父親への愛情が残っているか、試したのかも知れなかった。

「一つ、先生に質問があります」

私は、かねてから分らなかったことを口に した。

「半身不随で、言葉もしゃべれなくて・・父の記憶はまだあるの でしょうか?私の」

・・院長は、長い沈黙の末、こう言った。

「この病気は、まだ良く分っていないのです。だが、そう信ずることです。
私も長い医師の経験から、家族の方がまずそう信ずること ・・それが大切です」

ただ、と院長は続けた。

「お父様の病状を見ると、肺炎も併発していますし、衰弱も進んでいるようです、
残念なことですが、来年の4月頃が山かと思います」

見つけたレコード

状態の安定していた時。父を車椅子に乗せて、病院の屋上まで出た。
私は父の影響もあり、高校生の時からクラシック音楽を聴きはじめた。
父はどちらかというとベートーヴェンやモーツァルト中心に聴いていたが、
私はマーラーやブルックナー、シベリウス等の作品を聞いていた。
その後、私はある作品に出合い、生涯この作曲家たちの研究をしようと決めた。
それはギョーム・ルクーとフレデリック・ディーリアス。
特にディーリアスはフランスの田舎に30年以上隠住生活を続けた特異の作曲家で、
今でもあまり評価をする人は少ない・・
昔は父と音楽の話をすることもあったが、父親は頑なに私の聴く作品を認めなかった。

「親父のキャビネットから、ディーリアスを見つけたよ、
こんな作品・・聴いていたんだ・・」

私は、その日父親のレコードを持参していた。
空ろな父の表情が 、 少し変わったように見えた。

「ディーリアスの"海流"、良いよね・・でも、悲しい作品だよね・・・」

山に囲まれた病院の屋 上が、夕日に染まりつつあった。

「彼は、全てこの世の物は帰ってくると言うんだよ」

私は、小学生のころ、夜に高熱を出し
父に背負われて病院に連れて行ってもらった事を思い出していた。

遅い夏の夕刻、ひぐらしの声がひときわ高く 聞こえた。
私は翳み行く遠い山々を空ろに眺めていた。  

 ~ディーリアスの『海流』から~

”おお、やけっぱちな絶望の歌。 だがやさしく!低く沈んで! やさしくだ!

つぶやくように歌わせてくれ。 中略 おお過ぎた日よ! 幸せな生活よ!喜びの歌よ!

大空で、森の中で、野の上で、 愛し!愛し!愛し!愛し!愛した!

だが彼女はもういない!もうぼくのもとにはいない。 もうぼくらは離ればなれだ。”

~引用終わり~

一対の鴎に託した深い官能の世界。
そして悲しい別れ。
ディー リアスはその海の情景を実に巧みに綴っていく。
ホイットマン の世界はまるでカレイドスコープ のような美しさを秘めている。
そこにあるのは、全てを超越した、動かしがたい運命の世界。
だが、なんと美しい世界なのであろうか?

幸せに暮らしていた一対の鴎・・
ある日、雌の鴎が遠い海に出た まま、帰ってこなかった。
突然の別離。
だがそれは耐えなければ ならないこと・・。
深い沈黙の なかで、雄の鴎は楽しかった日々 を回想する。

ポーマノクの自然、ライラックの花々の情景を織り込みながら、この美しい合唱曲は、
沈黙の世界を静かに歌い上げるのだ。  

私とは好みが違い、私の聴く音楽を全て否定した父親・・
その父親 のキャビネットの中から、この音楽が発見されたことは、
思いも寄らないことであった。

父親は、それから6ヵ月後の春の宵に亡くなった。

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