きっかけ。

きっかけ。

始まり。1

私は死生観を持っている。
ネットで死生観の定義を調べると、以下のようなことらしい。
死生観とは、生きることと死ぬことに対する考え方、または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのこと。

なぜ死生観を持つようになったのか?

今は在宅医療に従事しているが、「医療従事者だから」なわけではない。
私は医者でもなければ、コ・メディカル(医師や歯科医師の指示の下に業務を行う医療従事者)でもない。そもそも無資格者。

きっと無資格者にも役割はある。医療従事者であれば死生観を持つべきだとも思うが、人それぞれの考え方でいいと思う。
確かに、在宅医療に触れると、死に接する機会は多い。また、医療や死に関する勉強をする機会も非常に多いので、知識は深まったとは思う。

「だから」ではない。
考えるきっかけがあった。

今回はそんなきっかけの少し暗いお話し。

私がまだ20歳の専門学校生だった頃だと思う。
いつもながら眠い授業の中、携帯が鳴った。
高校時代、1番可愛がっていた後輩からだ。
久しぶりだなぁ、なんだろ?と思いつつ、授業が終わり、休憩時間に掛け直す。

電話に出たのは母親だった。
「○○くんですか?○子の母です。」
「あ、お久しぶりです。○子の携帯ですよね?どうしたんですか?」
「実は、○子が亡くなりました。」
「ん?どういうことですか?」
「○○くんにはお世話になっていたし、○子も凄く慕っていたので、お知らせしたくて…」
「いや、亡くなったって言いました?」
「はい…自殺で…。」
「………」
パニックです。
いきなり動悸がし、何がなんだかわけがわからなくなりました。
思考が駆け巡り、理由を探す。これは現実か?寝ぼけているのか?
言葉を失いました。

母親の会話は続きます。
「○月○日、家に帰ったら○子が首をつって亡くなっていました。」
「お世話になった子にだけお声がけしているんです。」
「○○くんにも沢山お世話になったから、最後に顔を見てほしくて」
「突然のことで理解が出来ないので、とりあえず本日お家にお伺いしてもいいですか?」
「是非。○時以降はいますので、ご連絡ください」
「○時にお伺いできるので、ご連絡します。では。」

とりあえず電話を切り、タバコを一服。
続くパニック。
理解ができない。どういうことなんだ?
授業を受けなくちゃ。無理だ。
帰ろう。

一旦家に帰り、誰もいない家で、何もせず、ただ座る。
今思えば、思考が停止していたと思う。

約束の時間になり、家へ向かう。
気が重い。

家に着き、久しぶりのご挨拶。
○子が横たわっている。
再び思考が止まる。現実が受け止められない。

「とりあえず座って。」
○子のお母さんに促され、座り、話しを聞く。

今回はここまで。
10年以上前の話しだが、鮮明に覚えてる。
次回、「経緯。」

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コメント

  1. まず。
    思い出しつつライティングしていてもし少しでもお辛くなったら…
    その時点でいったんパソコンなりスマホなり…
    blog投稿画面を閉じてください。

    なぜかというと。
    私自身も全く同じ体験をしていて、このテーマについて書くと…
    何十年も経過した今なおパニックに陥るからです。

    人間の生命って重たいから。
    仲よくしていた子がある日突然、
    自身の手で人生の幕を閉じてしまったという出来事は、
    それだけ遺された人の心に重たく永く残り続けるものです。

    トラウマになりかねないくらいにその自死が重たい。
    生命の尊さを逆の側面から証明されているのがさらに重たい…

    とても続きが読みたいとは思うのですが。
    まずはアラジンさんがつらくならないことが何よりだと思うので…
    ご自身のペースで、書ける時だけ取り組んで戴けたらなと願います。

    私自身はがんはじめ諸々の病気を経験し、
    五十歳を過ぎた現在は在宅医療のお世話になっています。

    やはりアラジンさんのような方が在宅医療専門クリニックにいらっしゃって、
    お年寄りや私のように医療用麻薬の管理が必要な患者さんに対し、
    医師やコメディカルスタッフとはまた違うケアに取り組まれておられます。

    その取り組みに患者として頭が下がります。

    今後、医療制度改革に合わせ、私のように「自宅で死ぬ」選択をする患者が、
    急激に増加するであろうと見込まれる時に、
    アラジンさんのような若い方の存在は社会の希望であると同時に、
    この生命が軽んじられがちな世の中にきっと、
    一石を投じられると思います。

    どうぞこれからもお励みください。

    穂花

  2. 私も1昨年友人を亡くしました。入院したと聞いたのでお見舞いにいったら意外と元気で、退院したらゴルフ行こう!って話して、10日後に亡くなりました。亡くなった日は高校の友達みんなでお見舞いに行く予定だった日!私と会った翌日に容態が急変して、最後に話した友達が私だったと後で聞きました。亡くなった友達は曹洞宗の住職で、その後自分の母親もなくなり、それがきっかけで仏教に興味を持ったり、終活勉強したり、Slow&happyやったりしています。

  3. 朝には紅顔ありて夕には白骨となりぬ。

    私自身はキリスト教の信仰を持っている(尤も今は思うところがあって…
    信仰生活から距離を置いています)立場ですが。

    どのような教えに傾倒していようと、
    人間は本当にちっぽけで一秒先のこともわからない。
    一つだけはっきりしているのは、
    誰しもが生命ある以上間違いなくいつの日か死ぬこと。

    先のことがわからなくて(人知を超えていて)且つ、
    生命には限りがありいつか終わりの日が来ること。

    だから…生きるっていいのだと思います。

    先のことがわからないからこそ、
    この瞬間を真摯に生きて、よりよい未来を手に入れたいし。

    いつか必ず死を迎えるからこそ、
    悔いの残らないようにやりつくしたいし。

    もしも永遠の生命なんかがあったなら、
    人間は弱い存在であるがゆえにしょうもなく堕落し切って、
    社会は退廃の一途をたどるのみだったでしょう。

    終わるからこそいいんだ…うまくは言えないのですが。

    重篤な病気を幾つも経験し、
    瞳孔が二度も開く目に遭って、それでも死ねなかった私だから…
    人生に対する想いがより深まりました。

    そう捉える時全ての経験には意味があるのだとも思います。

    アラジンさんや齋藤さんの別離にまつわるつらい思い出が、
    しかしいつの日か昇華し、尊い記憶となりますように。

    穂花

  4. 前田さん
    コメントありがとうございます。

    大丈夫ですが、鮮明に覚えているものですね。
    このような機会がない限り、普段なかなか細かく思い出すことはありません。

    自死というのは、残されたものにとっては、どう受け止めていくかが問題ですね。

    在宅でも、現在は現場に出る事が少なくなりましたが、支える一人として、考えることは多いですね。
    自死が選択肢の一つになり得るということに関しては、私は否定しません。
    よく考え、検討する余地はありますが、100%悪だとは思えません。

    ほんの数十年前までは、自宅で亡くなるの普通でした。
    しかし、いつの間にか自宅で亡くなることが不安になり、病院で亡くなることが普通になりました。
    アンケート調査上では、多くの方々が自宅で亡くなること希望します。
    しかし、実際は自宅での死を迎えることに不安があり、結局病院で亡くなる方が多いです。
    これには非常に多くの要素が含まれます。
    何かをやれば、全てが変わるわけではないかと思いますので、一つずつ、少しずつ変化が必要かと思います。
    ただ、在宅医療の主役は患者であるべきだと思います。
    その軸は絶対にぶれてはいけないところですね。

    一人一人の思い、意識、行動が社会を変えるんだと思います。
    前田さんの発信も大切な行動の一つです。

    ご自分のペースで、出来る限りの発信をし続けられるよう、応援しております。

  5. TAKASHIさん
    コメントありがとうございます。

    何か行動するきっかけである、原体験は非常に重要だと思います。
    付属要素は沢山あるかと思いますが、原体験への想いの強さというものは、行動力、継続力、発信力へ大きく影響します。

    私は、ふと立ち止まった時、なぜこうしたいと思ったんだろう?原体験は何だったかな?と思い返すことがあります。
    TAKASHIさんも、もし躓いたときには、是非思い返してみてください。
    何か変化が生まれるきっかけになるかもしれません。

    スロハピの活動含め、TAKASHIさんのご活躍を祈念いたします。

  6. 訊くところによると、
    自宅で死を迎えたいと願いつつ、それが実現できる人は全体の12%。

    逆に、私のように重い障害を負って生きている場合、
    まだ治療できる余地はあるにも拘らず、
    入院や手術を受けてくれる医療機関が見つからない…

    世の中は決して平等なんかではありません。
    ただ、いいか悪いかは別として固より「平等」なんて存在し得ないのです、
    唯一誰もがいつかは死ぬという真実以外。

    だからこそ、今の私に出来ることとして。
    障害を負って生まれ、あり得ない苦労や差別を味わって生きて…病んでいく。

    その過程のなかで健常者と呼ばれる他の人には見えないであろう景色について、
    精一杯自分自身の言葉として、未来への遺言として紡ぐ。

    できることをやるだけです。
    私に限らず、人間の営みなんてそんなものかも知れません。

    最後に。椿の画像を拝見して思いました。

    桃の節句に飾る「吊るし雛」というものがありますが、
    吊るし雛において椿の花は梅の花と並んでマストなモチーフです。

    冬の厳しい寒さを耐えて春に咲く花の習性から、
    厳しくてつらい人生をしかし耐えていつか花開くという意味が込められています。

    アラジンさんの見聞きし体験された全ての事柄がいつか実を結び、
    人生の上で大輪の花を咲かせる春がいつか訪れますように。

    前田穂花

  7. 前田さん

    椿の画像に関しては、日本の伝統的な風流から意味を持たせました。
    確かにそのような意味があるかもしれませんが、今回は日本の伝統的な表現として、「死」を連想させるために使用しました。

    冬に美しく咲き、春を迎える前に、綺麗なままポトリと落ちる。
    そして、紡いでいく。

  8. >冬に美しく咲き、春を迎える前に、綺麗なままポトリと落ちる

    …確かにそうですね。

    >そして、紡いでいく

    生命の営みとは、その一生涯を掛けて、
    自身の生命や想いを次世代に伝えていく。

    まさにそのものですね。

    亡くなった後輩女性はお若くして「綺麗なまま」
    人生を閉じられた…のかも知れませんが。

    彼女の想いはアラジンさんを動かす「きっかけ」として、
    あなたに確かに手渡されたことでしょう。

    そういう意味で彼女は未来へとご自身の魂を「紡いだ」のですね。

    前田穂花

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