般若心経が説く「空性」について考えてみた

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般若心経が説く「空性」について考えてみた

そもそも般若心経が説くものは?

 みなさん、こんにちは。たろうです。下記の記事を閲覧していただけるとありがたいのですが、たろうと般若心経との出会いは偶然で、たろうが三十代の時にさかのぼります。それから二十年近く般若心経を信仰し、勉強し続けて来たたろうですが、わたしは般若心経をスピリチュアルな宗教と言うよりも、仏教哲学として学んできました。
 主にノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世の著書で勉強しております。下記の別記事「般若心経の『空即是色』について考える」がわたしの記事の中では閲覧数が一番高いので続編としてこの記事を書くことにしました。
 
「般若心経の『空即是色』について考える」については下記URLをご参照くださいませ。

このURLの記事では般若心経の「空即是色」という部分にフォーカスしていますが、ではそもそも「空(くう)」とは何なのか? 今回はその「空」とは何か、わたしなりに勉強したことをアウトプットしたいと思います。

そもそも般若心経で説かれていることとは?

般若心経の概要を説明すると、「物質的な存在(色)は空である。空は物質的な存在である。物質的な存在と空は同一である。物質的な存在と空は別のものではない。感じることも、意識することも、行うことも、認識することも、すべては空である。それゆえに、感じることも、意識することも、行うことも、認識することもない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、体もなく、心もなく、物質的な存在もなく、音もなく、香りもなく、味もなく、触れる対象もなく、現象もない。眼の領域から意識の領域まで、さらには非感覚的意識の領域に至るまで何もない。無知もなく、無知が尽きることもない。老死もなく、老死が尽きることもない。減ずることもなく、生ずることもない」。

 ざっと概要をお伝えしましたが、般若心経ではとにかくすべてが空であり、空とは「自性を持って存在するものはない」という空性に紐づけられたものなので、究極のレベルに於いてすべてはない、と言うことになります。
 ここでポイントなのですが、「自性を持って存在するものはない」というのがかなり大切なポイントとなります。
 何も存在しないなら、結果何もかもが虚無で空虚で空っぽなんじゃない? と考えるのは間違いです。「自性を持って存在するものは何もない」という点、これから説明しますので一緒に考えてみましょう。

空性とは「自性を持って存在するものはない」

 仏教では無常観が大切にされます。何もかもが無常。常なるものは何もない、ということです。それを般若心経では「空」として説いています。
 もしも、ある瞬間に何にも因果も依存もせず、あることころに何かが生まれて絶対的な存在になれたとしたら、きっとそれは未来永劫、絶対的な存在なのでしょう。
 しかし我々人間にしても、動物にしても、親なしで生まれてくることはありません。物体にも原料があり、原料に依存しなければ生まれて来ません。
 宇宙の始まりであるビッグバンも、それなりのエネルギーなど条件が整っていないと起こらなかったのではないかと言われています。
 ですから、まったく独自に「自性を持って存在するもの」は「ない」というのが空性が語るところです。
 しかし空性はリアリティの否定ではありません。現実レベル、世俗レベルに於いてはすべてのものは存在します。お釈迦様にしろ般若心経にしろ、現世を捨てよと言っているわけではありません。
 以前の記事に書いたように、「色即是空」の、「すべては空である」、と捉えると何もかもが虚しいですが、次の「空即是色」に注目すると、「空がすべてである、今起こっていること、今存在しているものがすべてである」、と捉えると、何もかもが尊くありがたいものだと考えられます。
 ただそれらのすべては「自性を持って存在する」永遠の完全無欠のものではない、と釈尊は説かれたのです。いずれは手を離れてしまうもの、いずれは消えてしまうもの、だから執着しないように、と。
 また般若心経についてはわたしが学んだことをまたアウトプットできれば、と思っていますので、これからもよろしくお願いしますね。今日はこの辺で。

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