赦しと受援力

赦しと受援力

前田穂花です。
過日お知らせした通り、ただいま肺炎のため療養中です。

現状、肺炎に罹患するまでの詳しい経緯や、
原因がまだはっきりしてはおらず、
相変わらず高熱と倦怠感、胸部の痛みが続いていますが…

おかげさまで、
今日はどうにか煮込みうどんを食べることができました。

皆様からの温かいメッセージにも深謝いたします。

ここはもう覚悟を決めて、完治するまでしっかり休みたい。
休もう…と思っています。

おとなであることの言質は「自分でがんばる」?

さて。
重い障害を負って常時車椅子に乗っている上、
ひとり暮らしの私は…一旦体調を崩すと本当にお手上げです。

それでも脳梗塞で片麻痺になった段階ではまだ。

動く方の腕だけで車椅子のリムを駆動し、
往復3時間を掛けて自力で買い物に行こうとし続ける私でした。

――自分でどうにかできるうちは自分でがんばる。
おとなの責任として自分でどうにかする、
他人に頼らない。

それが常に私の心の大部分を占めるスローガンのようなもの。

普通に考えれば、
脳梗塞で左半身が完全に麻痺してしまえば…
それだけで不便だし不自由だし、
誰かの力を借りたくなるものでしょう。

ですが…詳しくは後述しますが。

「誰かの力を借りる」。
そういう発想に至ることだけで私は「負ける」。
すでに「負けている」。
…こんな思い込みを手放せない私が確かにいました。

今回…罹患したのがウイルス性の肺炎ということで。

もしも他人様に伝染そうものなら。
ご迷惑が及ぶどころの問題ではないから…

ようやく私もネットスーパーや生協を利用しよう。
そんな思いに至りました。

ただ。ベッドの中で持ち込んだタブレットの画面を眺めつつ、
品物を選びながら。

いざ「食べたいもの」を注文しようと思っても…
私は何を選べばいいのかわかりませんでした。

デリバリー系のサービスは人件費が載る分、
どうしても割高になってしまうのは事実です。

特に、病気で買い物に行けないからサービスを使うという場合。

出来合いや加工食品の注文がメインになる以上、
食材そのものを購入する以上に高くつくのはやむを得ません。

しかし、決して費用面だけが、
私が注文できない理由ではありませんでした。

ネットスーパーの注文すら甘えに思う不幸体質

体調が悪くてキッチンに向かえないのだから。

注文するとすれば…調理しなくてもすぐ食べられる、
レトルトのお粥やシチューの類。冷凍食品。
お湯を注げばいいお味噌汁。プリンやゼリーなどデザート。

その辺りが妥当な線のはずなのですが…

私にはそれらを頼むことが「甘え」に思えて注文できないのです。

ひとり暮らしができているんだから、おとななんだから。
今は仕事を休んでいて時間だけはいっぱいあるんだから…

買い物に出られないにせよ、加工食品の購入は極力控えなくちゃ。

ただでもあたしには障害があるんだから、
普通の人のようにはできない自分なんだから。

遺された能力を温存するためには、
毎日少しずつでもがんばらなくちゃ…がんばらなくちゃ…。

そして。
熱が高くて自炊どころか食べられるもの自体限られている状況なのに。

私がネットスーパーで頼んだものは、まさかの米(!)だとか。
丸のままの白菜だとか大根だとかキャベツだとか…
肉や魚や…とにかく、火を通さないと食べられない食材ばかり(苦笑)。

その後、再び高熱を出して。
後悔先に立たず「ああ…もっとアイスやプリンやゼリーを買えばよかった」。

言うまでもなく…気分が悪くて台所に立つことなんてできずに。
※もとより車椅子ユーザーだから立たないんですが

三つだけ買ったカスタードプリンはすぐになくなって。

食事の用意はできず、すぐ食べられる食材の購入もなく。

体調が悪くても食べやすいものを便利に購入すべく。
せっかくネットスーパーを利用したのに…

ベッドの中で、
ミネラルウォーターだけを口に数日間を過ごした前田でした(笑…えない)。

…我ながら間抜けすぎる。

自分を赦せない拘りが人生を余計に苦しくする

複雑な成育歴も影響しているのでしょうが。

無意識のうちに「がんばらなくちゃ」という言葉で。
私は子どもの時から自分に呪いをかけてきました。

「がんばらない自分=直ちに大人から見捨てられる自分。
≒愛されるに値しない自分」。

三つ子の魂百まで。
今でもそういう思い込みの呪縛に私は苦しみ続けています。

今回だって…体調が優れないからこそ(安くはない)お金を払って、
便利なサービスを活用するのです。

こういう時こそ食べやすいものを堂々と購入すればよかったのです。

レトルトだろうや出来合いだろうが、デザート類ばっかりだろうが。

何を食べようと、何を注文しようと、
私の勝手です、他人に文句を言われる筋合いはありません!

というか…例え他人が文句を言おうとも。

病気でやむを得ない状況である以上、
まずは自分の欲求を最優先すべきでしょう。

栄養面より費用面より…
こういう時こそ食べたいものを食べればよかったのに。

それは甘えでも何でもないはずなのに。

そのじつ…
自分を一番赦せないのは他ならぬ私自身です。

もっとよりよい自分にならなくちゃ。
もっと努力できる自分でいなくちゃ。
もっとリスペクトに値する自分でいなくちゃ。

現状に甘んじるような自分は手放さなくちゃ。
他人に迷惑をかける自分にならないようにしなくちゃ…any more.

やたら「~しなければならない」。
人生の課題に「must」がついてばかりの私。

私は子どもの時から「成長し続けなくちゃ」「変わらなくちゃ」。
そんな思いばかりを強くして生きてきました。

成長する努力をやめた時点で私は社会から切り離されるのだ。
そう怯え続けて生きてきました。

他人の顔色ばかりを窺っていました。

だけど怯えてびくついている割には、
障害特性上?他人の顔色も空気も読めない私だから。

この社会はひたすら「怖いだけの場所」でした。

憧れる「完璧な自分」には程遠いくせに。

現状の自分が全く赦せないからこそ。
私は必然的に他人に対するジャッジも厳しくなりがちです。

好き勝手に暮らしている連中、ともすれば狡く立ち回る奴ら。
限りなくブラックに近いグレーゾーンなあいつ。

あたしは「こんなに」真面目に努力してるのに!

直接自分には利害が及ばない人たちであっても、
巧く「スルー」している彼らについて、
私は何ひとつ赦すことができませんでした。

他者を赦せないことはそのまま、
自分の心の中でストレスとして蓄積されてしまうものです。

自分も赦せず、他人も赦せない。
私はさらに心身を病んで壊れていくばかりでした。

カオスな現代だからこその「受援力」という言葉

特に平成の終わりから大きな災害が立て続けに起きました。

そんななか、耳にするようになった言葉に、
「受援力(じゅえんりょく)」というものがあります。

震災が続く中で出てきた語である点でもおわかりのように。

受援力とはもともと、
大きな災害や事故が起きた場面で適切な助けを求められる力を、
指す言葉でした。

この「受援力」という言葉。

現在ではもっと広く「困った時には勇気を以て相談し、
うまくサービスや支援を活用する力」という意味に…
用いられるようになりました。

私たちover50のミドルシニア世代は特に、
他人に迷惑をかけてはいけない、家庭の問題は家庭内で解決、
誰かに弱音を吐くのは恥ずかしい事…。

そんな昭和の価値観のもとに育てられてきました。

昭和時代の考え方が悪いとは一口には言えません。

ただ。
今は平成をジャンプして令和という新しい時代となりました。

男女機会均等法のもとによる共働き家庭の増加、
終身雇用&年功序列の崩壊。

就労体系の変化による経済的見通しの不安と、
起因する未婚率増加と少子化…

社会の構造や経済の状態も昭和のそれと180度変わりました。

いいとか悪いとかではなく、
単純に昔と今では世の中のシステムが違うのです。

それなのに私たちの価値観「だけが」変わらない。
きっとここに無理があるのです。

時に必要な支援を求められる勇気も能力

歳を取れば誰もが衰え弱り、病気にも罹りやすくなるものです。
自然の理です。

ここには如何なる者も抗うことはできません。

だとすれば…
意固地にならずに自分を赦し、
必要な支援やサービスは導入できる勇気。

これも永い人生を生きる上では大きな力です。

普段、私たちが元気な時には、
自分の可能な限りの力を尽くすことが大切でしょう。

がんばれる人が精一杯頑張って、
何らかの事情のために今はがんばることができない…
誰かのために生きる姿勢も必要でしょう。

同時に。
病気をしたり年老いたり、どうしようもない孤独に曝されたり…
がんばれなくなったら。

助けて!と叫べる勇気。
必要なサービスや支援を躊躇せず導入し活用できる決断も、
私たちには必要でしょう。

人間は我慢するために生まれるのではありません。

今、あなたや私が無理やり苦痛を我慢したとして。

その方向性の間違った我慢こそが、大切な家族や大切な人に、
別の我慢や苦しみを強いている可能性も忘れてはならないでしょう。

子どものような素直さで受け容れる能力

新約聖書「マタイによる福音書」18章には、
以下のように書かれています。

「心を入れ替えて子どものようにならなければ、
決して天の国に入る事はできない。
自分を低くして、この子どものようになる人が天国で一番偉いのだ。
私の名のために、このような一人の子どもを受け入れる者は、
私を受け入れるのである」

…私はキリスト教の信仰を持っていました。

信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)も受けているのですが、
現在は思うところがあって教会生活から意図的に離れています。

そんななか、ここでやたらと聖書の話をし、
皆様に「お勧め」をしたくはありませんが…

この聖書の一節だけは、
何かの時に想い出して戴ければと思います。

「子どものような」人とは、
ここでは自分の弱さや限界を知っている人を指します。

「私」とはストレートにはイエス・キリストを意味しますが、
生きる上での大きな力、
自分にとっての大きな支えというように解釈することもできます。

そして「天の国に入る」とか「自分を低くする」とは、
自分の弱さを理解して、
必要な助けを素直に受け入れられる力を意味します。

時に子どもはストレートなもの言いも平気でしがちであり、
決して「天使」なんかではありませんが。

おとなの庇護が必要なことを言葉ではなく、
身を以て知っているので。

子どもは助けられることを恥ずかしいとも思わなければ、
自分の要求を通すために泣き叫ぶことも厭いません。

何もできない乳幼児は泣いて要求を叶えてもらう経験を通じて、
人間としての基本的な信頼や自己肯定感、愛などを学び取っていきます。

赤ん坊は泣かなければその生命すらも維持できないのです。

そんな過程を鑑みる時。
私たちおとなも、本当に行き詰ってしまった場面では…
泣いて叫んで訴えて、差し伸べられた支援の手を振り払うことなく、
受け容れる勇気を持ちたいものです。

苦しまないために必要な「赦し」の心

さらに。私たちクリスチャンにとって、
イエス・キリストとは私たち人間の罪のために十字架にかかられた、
「赦し」の象徴でもあります。

全ての人に信仰生活が必要だと私は思いません。

誰しも心は自由なので、何を思い、
何を信じてもそれぞれの自由だとも考えています。

ただ。赦しということはとても大事です。

あなたが苦しまないために。

あなたがあなたの価値観に縛られ過ぎて他人をジャッジし、
そのために余計にストレスがかさんで、
これ以上つらくなってしまわないために。

どうかまずはあなたが、
あなた自身に厳し過ぎることがありませんように。

私自身も…
病床で生きる意味を考えながら、本当の意味での赦し。

他人に正しく甘える力の養い方を日々考えつつ…

ネットスーパーのカタログを眺めています。

まずは…
自分が食べたいものくらい、
躊躇せずに注文できるくらいの私になれますように。

前田 穂花

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コメント

  1. 赦しという言葉は響きこそ温かみや愛を感じますが。

    よくよく心のなかで赦しという語を反芻しているうちに、
    相手のためというよりはむしろ。

    赦しは自分の心が楽になるための行為にすぎず、
    それ自体が本当は相手を見下げた上から目線な行動なのだという…
    そんな本質に気づいてドキリとさせられます。

    だけど。
    赦す行為によって自分が楽になり、
    内心相手より優位に立つことを通じて気分がよく過ごせて。

    自身が快適に過ごせる余裕が他者への優しさに結び付くのなら。

    本当は俗でしかない赦しも。
    俗から昇華して高いものに改められるのでしょうか。

    ともあれ。
    自分が幸せだから他人も幸せにできるのです。
    自分が充たされるから他人をも充たせるのです。

    不幸は不幸しか招かず、憎しみは敵意しか招かない事実は、
    歴史が証明しています。

    それらも踏まえて。
    充たされ幸せを憶える経験を重ねることを通じて、
    他人を正しく信じ、必要に応じて助けを求める力も養われていくのです。

    私たちは子ども時代、必ずしも充たされてはいませんでした。
    我慢しろ、甘えるな、他人に迷惑をかけるな。
    そこばかり強調されつつ他人を蹴落とす学びを強いられました。

    我慢も必要であり、自己責任という発想も強ち間違いとはいえません。
    しかし、社会構造自体が昔とは大きく変化した昨今、
    個人に全ての責任を委ねる考え方は、
    社会の歪みとして私たちを苦しめつつあります。

    ミドルシニア世代の私たちは年老い衰え、
    だんだん自分で自身の全てを御せなくなるばかりです。

    弱りつつある自分を認め、自分の弱さを赦すことで、
    適切な受援力を身につけ、他人を責めず自分を過剰に虐めず…
    風通しのよい関係性、生きやすい社会の構築が実現できますように。

    穂花

  2. いずれにしても。
    自分を赦すことも、必要に応じて他人の助けを求めることも…

    自己肯定感が低ければ本当に「無理ゲー」。

    自分を赦せない自分、うまく他人を頼れない自分。
    自分に対する評価がめちゃくちゃ低く「私が生まれたこと自体間違い」と…
    いつも胸の中でつぶやいている自分。

    本当は自分が大嫌いで、だから虚勢を張っている自分…

    負の無限ループですが。
    このどうしようもないダメ・スパイラルをしかし脱するために。

    発想の転換「別に自分が赦せなくてもダメでもいいじゃん」。

    意外と私に近い思想の人はいっぱいいるような気がしています。
    自分が嫌いだから他人に自分を認めてもらうことで存在意義を確かめたいし。

    ありのままの自分が赦せないから「もっと成長しなくちゃ」。
    そう自分に発破をかけては空回りしまくり。

    昨今のSNSによる承認欲求の増幅システムも、
    それらの心の不健全さをさらに混迷化させてしまいがちだから。

    ダメでも別にいいじゃん。
    そう思って、
    本日はアイスを三つもイッキ食いしちゃった私を赦してあげました(爆)。

    アイスが食べたいという素直な希望を自分に叶えてあげたあたしってすごいじゃん。
    意外とそんなところに本当の自己承認の糸口はあるのかも知れません。

    穂花

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