誕生日を機に改めて生きる意味について考えてみた

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誕生日を機に改めて生きる意味について考えてみた

前田 穂花です。
私事ながら本日、五十二回めの誕生日を迎えることができました。

これまで私を支えてくださった多くの皆様に対し、
深くお礼を申し上げるとともに。

時に気分で暴言を吐いてしまったこと。

自身の感情的な言葉によって沢山の方々を悲しませ、
不快にさせてしまったこれまでの出来事に対して…
心よりお詫び申し上げます。

固より常に孤独と隣り合わせだった重度障害者の私

年明け早々に「いきなり勃発」したコロナパニック。
予想を遥かに超えたコロナ禍の長期化に皆が疲弊しています。

未曽有のパンデミックは社会において一人ひとりを孤立させ、
誰しもが「繋がりの希薄さ」に心を病みつつあります。

――私は生まれながらにして障害を負っていました。

この感覚は、日本だけに限らないのかも知れませんが。
我が国においては、令和の今なお、
障害とは「親の因果が子に報いた」結果でしかないとされます。

「前世の祟りによって“罰”としての障害を与えられた」私は、
コロナ云々の話ではなく、予てより他人の憐憫に晒され、
時に他人の好奇や嫌悪の視線を浴びまくって。

言葉には表現できないような…もやもや感を伴いつつ、
常に孤独と向き合わされる中で生きてきました。

※世界13億人の障がい者にとって「孤立感」は日常的。ポストコロナ時代を考える(Forbus Japan より)
https://forbesjapan.com/articles/detail/34079

…一口に障害、といっても。
程度も違えば生活上の困難も、求めている着地点も異なります。

同じ障害名、同じ障害等級だからといって。
各々顔が違うように、一人ひとり必要な支援も違えば、
それぞれが生きたい人生の在り様も異なるのに。

「皆が違う」という部分については、
障害者も健常者と何ら変わらないのに。
健常者的な善意や配慮から私たちが、
「障害者」と一括りにされていることによって。

私たちの「本当の」問題は何もあからさまにならず、
…だからこそ障害者同士の足の引っ張り合いや、
無駄な攻撃、無駄なトラブルも後を絶ちません。

「話し合いで歩み寄れる部分はほんの一部だ」。
そう悟って諦めている障害当事者は私に限らないでしょう。

だから敢えて孤独を選び、孤高であり続けることこそ、
唯一「障害者としての自ら」に赦された尊厳だと、
捉えている当事者も少なくはないはずです。

「普通に生きる」事こそ私の願い。障害は罰や報いなんかじゃ決してない

心身のハンディキャップに加えて、
このどうしようもない孤独感や社会から疎外されている感じが、
障害当事者としての私をさらに悲しくさせ続けました。

――障害が“罰”だなんて私は思いたくはありません。
ましては前世の報いでも祟りでもないでしょうし…

障害があっても「赦されたい」です。
私はそのままで生きることを許可されたいです。

本当であれば「障害を負った姿」のまま、
普通に存在していたいだけなのに。

「あたしの望むところは健常者になる事じゃない!
あたしはずっとあたしでいたいだけなの!」

そう声を挙げ続けてきましたが…

五十二年もがんばっているにも拘らず。
私の叫びがなかなか他人の心には届きませんでした。

障害者目線で捉えつつ私が希うコロナ後の社会変化

パンデミック以前から、私はひとりで行動し、
ひとりで過ごすことを好んでいました。

障害者ゆえに、いろんな意味において、
私は他人のペースに合わせられないからです。

(本来予定されていた)パラリンピックに備えて、
以前に比べればだいぶん東京の街のバリアフリー化は進んだにせよ、
車椅子で行ける場所はまだ限られています。

土地が高い都会においては。
飲食店も地下や二階以上に位置することが殆んどであり、
その大半は未だに階段利用です。

エレベーターは建築基準法に準拠、五階以上の建物にしかありません。

車椅子ユーザーが使えるトイレはエレベーター以上に、
数がさらに限られていて、形状的に介助者を要する場合も多々です。

仮に。
車椅子を介助してくれる誰かとの外出が叶ったところで…

発達の遅れで空気が読めない私は「場の空気は読めない」にせよ、
自身が空気を「読めていない」という点は知っているので。

終始、他人の顔色ばかりを窺い、意味もなく愛想笑いを続けて。
お出かけが楽しいどころか、
私はただくたびれて消耗するばかりです。

結局、自身もくたびれるだけだし、相手にも申し訳ないので。
私は個人プレーに徹し、ひとりでいるのを好むようになりました。

こういう私の(障害に起因する)特性について。

人間としてどうなのか、もっとがんばれ。
もっと明るい積極的な性格に改めろ、人嫌いを直せ…
そういわれることも少なくはありませんでした。

「障害者なんてニコニコしていてなんぼ」。
そう非難される場面も少なくはありませんでした。
――生きるのがつらかったです。

ただ…
コロナ対策による「ソーシャル・ディスタンス」が逆に。

私に似た行動様式を好む人、おひとりさまを受容し得る、
そんな価値観、新たな文化に今後シフトしていくような…
期待もしています。

いわゆる「陰キャ(この表現も差別的ですが…)」とされるタイプが、
コロナ禍によって新たな生き方の形になり。

おひとりさまであることが「可哀想」だといわれない、
「言わさない」社会になればいいなと願っています。

考えられる人になるために障害を与えられ、困難を課せられた

正直に言えば。
障害を負って生きていくことは本当につらいです。

性能のいい車椅子が開発されても。
生活を補う便利な道具が公費で賄われても。

障害をカバーする新たな療育法が浸透しても。
どんなに社会福祉制度が豊かになっても…

一番肝心な「人間の心」が変わらない以上。

障害を持つ私たちは社会においてずっと孤独であり、
深い疎外感に延々向き合わされたままです。

でも。
障害があったから私は「考えられる」ようになりました。

歩けない代わり。
私はその分、物事を深く考えるようになりました。

弱くて心が痛むからこそ、自分の痛みのように、
他人の傷みにも想いを馳せられるようになりました。

自分が幸せになるためには他人の傷みなんてわからなくていい。
わからないほうが都合がいい。

他人を蹴落とし、他人を利用して、
数少ない「幸せ」という名の椅子をゲットすることが、
人生という名の椅子取りゲームの勝因だ…。

コロナ以前のそんな価値観は、
パンデミックによって過去のものになってしまうかもしれません。

そして。
コロナ禍がなぜ私たちの心を疲弊させるのかといえば。

パンデミックを機に(これまでは障害者がより強く感じていた)
この「どうしようもない疎外感」が…

 
(ウイルスという目に見えないものの存在によって)
これまで(普通に社会の一員として)生きて来られた、
健常者と呼ばれる皆さんのことまでも。
容赦なく巻き込むようになったからだと私は思います。

コロナパニックはある意味、
どうしようもない災禍が詰め込みまくられた、
いわば「パンドラの箱」だったのでしょう。

つまりコロナ禍は。
これまでは「障害者だけのもの」だと思われてきた、
生きるうえにおいてのどうしようもない孤独や孤立感が…実は。

健常者に対しても普遍的に課せられていた、
社会における根深い問題であったという(残念な)現実を…

私たち人類に(よくも悪くも)あからさまに突きつけたのです。

コロナを機に一番小さき者としてこの世に在りたい

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」
(新約聖書“コリント人への第二の手紙”12-9)

今般のパンデミックの結果。

パンドラの箱に詰められていた新型コロナウイルスや、
ウイルス以上に怖い偏見や差別、過剰な恐怖や嫌悪…
いろんなものが世界を包んでしまいました。

だけど。
パンドラの箱の一番奥に「希望」が隠れている結末を、
私たちは子どもの時読んだ絵本でよく知っています。

「希望」としてのアフターコロナの世界は、
これまで「正しい」と思われてきた古い価値観をも、
きっと大きく覆していくことでしょう。

私たち人間は…いや、私は。
自分でも気づかないうちにとても傲慢になっていました。

自分の判断力や知識、価値観の正しさを過信し、
いつしか自身の考える「正義」は絶対だと思い込んでは、
自分と考えが異なる誰かを平気で断罪しまくりでした。

そんな傲慢な思い込みを、
今般のコロナ禍が一新、180度ひっくり返しました。

「今まで当然だと思っていた全ては、実は当たり前でも何でもなかったんだ」。

コロナをきっかけに、私は本当は如何に無力で浅はかな存在なのか、
痛いほど備に突き付けられた思いです。

だけど、
自分の弱さを知っている者ほど、強くて賢い存在はないようにも思います。

自分は無力なのだという現実を私がきちんと弁えつつ。

他者に対して傲慢にならず、感謝を以て謙虚に振舞える強さを、
私が自分のなかに培っていけますように。

すぐに権力を振りかざしたくなる自分の弱さを識り、
敢えて社会のなかに在って、
最も「小さき者」のポジションを選べますように。

コロナショックは私たちを不安と悲しみの淵に突き落としながらも。

同時に新たな気付きを与え、
その先に微かな希望が息づいている予感を感じさせてもいます。

願わくば、単なる因習のような思い込みも一新されて…

その社会的属性に関係なく、誰もが本当に自由であり、
自分が最後まで「自分」であり続けられる世の中でありますように。

コロナ禍のなかで迎えた自身の誕生日を機に、心から希います。

前田 穂花

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