【終活】よりよく自分らしく死ぬために。事前に意思表示することの重要性【人生の集大成】

  • HOME
  • Blog
  • 終活
  • 【終活】よりよく自分らしく死ぬために。事前に意思表示することの重要性【人生の集大成】
【終活】よりよく自分らしく死ぬために。事前に意思表示することの重要性【人生の集大成】

前田 穂花です。

うつ状態のため精神科のお世話になっている私に限らず。
今の時期、皆様お辛い中にあるのだとお察しいたします。

コロナ禍の一日も早い終息を心より希うのに併せて、
皆様の、そして私自身の日常が平静且つ安寧のうちに在りますよう、
お祈り申し上げます。

誕生日は自分の死に方を見直すのが私のルーティン

ところで。5月10日が誕生日の私は、
毎年5月1日に自身のリビングウィルを加筆&更新。
新しいものを冷蔵庫に張り替えることをルーティンにしています。

今年も誕生日まであと一ヶ月。
この「リビングウィル」自身の現状に合わせて、絶賛加筆中なう!な私。

…死に対する「事前指示書」リビングウィルを適示見直し、
毎年変化していく自分自身の状況に書き換えていかなくちゃ…

あたしには誕生日も来ないしバースディケーキも食べられないのよ!

そう捉えつつ。
毎年、私は誕生日の習慣にしています。

バツ2の私は独居、いわゆる「おひとりさま」です。

だからこそ、万一に備えてきちんと意思決定し、
自分の終末期に対する希望を文書にして明確に表示する…
「義務」として課せられているのだと受け止めています。

孤独死に対する覚悟はすでに決めています。

ただ…やはりノープランではいけない。
そう強く感じる私がいます。

もしもに備えて誰しもわかるように。
きちんと明文化して提示し、自分らしい死を担保されてこそ。
自分自身の人生、生き様もあからさまになるのだと思います。

だから。
よりよく死んで自分自身の人生をきちんと証しするためにも。

元気でそれなりに気力が充実し、精神的に清明で。
自らの言葉を以て意思を表明できる今だからこそ…
リビングウィルする意味も意義もある…というのが私の持論です。

*****************************

以下、実際の私のリビングウィルを、
差し障りのない範囲で一部抜粋します。

これは去年の5月1日に更新した内容を…

夏に脳梗塞が再燃し、在宅医療を導入したことや、
法務省勤務時代の共済障害年金の受給が可能になったことを鑑み。
自身の状況の変化に合わせ、7月に多少変更したものです。

大公開!前田穂花による「リビングウィル」実際の内容

万一私が病気や事故によって、不治の状態に陥り、
死も迫って生命維持装置等がなければ生存困難な状況にあり、
且つ意識不明の状態もしくは正常な判断力が失われた場合には、
以下の対応を強く希望いたします。

なお、これらは私の意識が清明であり、健全な精神のもとに、
自分自身について判断出来る時に書いたものです。

私は自然死を強く希望しており、
自身の死期に当たって過剰な医療の介入を望んではおりません。

ただし、私が痛みなど激しい苦痛を訴えた場合に限り、
痛みの緩和については出来るだけの処置を施していただきたく
お願い申し上げます。

また、いかなる医療的処置を施しても私自身の苦痛が軽減されない場合、
薬物による鎮静(セデーション)を躊躇なく施してください。

鎮静(セデーション)の処置について、世間では
「ソフトな安楽死」と揶揄する向きも否定できませんが、
私個人は自身が人間としての尊厳を維持して死を迎える上での
選択の一つだと考えています。

その意図を酌んで戴き、
私が最も肉体的精神的苦痛が少なく人生の幕引きを行えるよう、
どうぞよろしくお取り計らいくださいませ。

1. 万一私が何らかの理由で倒れた状況で発見された場合、
すでに私の意識がない状態であれば、
できる限り救急車は呼ばないでください。

2. 脳そのものに損傷が認められ、回復が認められそうにもない場合には
開頭手術は固く辞退させていただきたくお願いいたします。

3. 私が重篤な病状であり、心停止してしまった時点で、
どのような場合においても一切の蘇生術を施さないでください。

4. 気管切開、人工透析、輸血、
過度な抗生物質の投与はしないでください。

5. 私は経口摂取が困難になった時点で、寿命が尽きるのだと思っています。
従って人工的に水分補給や栄養補給を施すことはしないでください。

6. 前項について、具体的には中心静脈や末梢静脈への点滴、大量の皮下注射、
鼻チューブや胃瘻を作っての経管栄養摂取を私は一切希望いたしません。

7. 人工呼吸器は着けないでください。
万が一私の意に沿わず人工呼吸器を装着された場合、
回復の見込みがないと医師が診断、判断を下した時点で、
私から呼吸を維持するための装置を外していただいて一向に構いません。

8. これら上記に掲げた各項の対応を実行した場合に、
私自身に何らかの不利益が生じようとも、
私は現在もそして将来においても一切の異議を唱えません。

上記については私が私自身の意志によって希望いたす手前、
私の希望通りの処置がなされた結果、
万一私が何らかの不利益を受けることになろうとも、
その全責任は私の上にございます。

併せて、これらの処置がなされる際、
私にはもう自身の意思表明すら困難になっている状況だと思われます。

それにも拘らず私の生前の希望を尊重し、私の要望を忠実且つ
誠意を以て実行に移してくださるであろう関係者各位に対しては、
心からの感謝を申し上げたいと思います。
(以下略)

自身の意思表明。肉親に対して抱く遺恨までも私が記載する理由

年々自分の状況に合わせて、多少変更しつつはありますが。
基本的にはこの内容を崩しません。

これより以下に、自身の遺品の処理の方法、
葬儀その他は不要な事。

現行法に則って粛々と事を進めてほしい旨、
自身の死後の希望などを記述し、
日付及び戸籍上の本名を自署、実印を捺して完成。

因みに。
私は複雑な家庭に生まれ、困難な成育歴や生活歴を負っています。

虐待されたトラウマも未だにあれば、
暴力を振るわれた過去も心の傷として刻まれたまま。

ゆえに家族に対し、遺恨というか悲憤慷慨というか…
相当ネガティブな感情も胸に渦巻いたまま私は生きています。
今でも…です。

一般的に。
リビングウィルには家族への感謝などを綴るのでしょうが。

私は自身の人生に対する悲憤慷慨を明記しています。

参考までに。
遺言書にも「付言事項」を記載できます。
平たく言えば「備考」。

付言事項に事細かく記載が為されていることによって。
相続について手厚くしたい相手、
逆に何も残したくはない遺族の存在…など。

遺言書に記載された内容の真意がよりはっきりするそうです。

かつては付言事項にも大体「家族仲よく暮らしてください」。
「最期まで介護してくれてありがとう」などと、
肉親への感謝の想いが書かれる場合が多かったのですが。

カオスな時代の価値観を反映してか、昨今では…
毒親への恨み、兄妹への憎しみ、子への不満。
自分を顧みる努力をしなかった配偶者への憎悪…など。

負の感情をも記載するケースも増えつつあるのだそうです。

自分がいなくなってまで怨恨を遺したくないというのも、
人間として当然の感情ではありますが…

同様に、悪い感情を拗らせたまま涅槃に旅立つのも嫌なもの。

そういう意味では、きちんと自分の人生にけじめをつけ、
納得して彼岸へと向かえるよう、感謝の意と同じくらい…
悪い感情も吐いてから旅立つのも新しい価値観としてアリでしょう。

人間というのは生まれながらにして邪悪な存在であり、
人生も綺麗事なんかではとても語れません。

だからこそ…悪い感情を吐き切って、心身綺麗にしてから、
浄い心身を以て、天に召され黄泉の客になりたい。

そういう想いを持つことも生きているうちの自由であり、
今を生きている人間としての権利だと私は考えます。

誰かを恨み、儚い自分の運命を呪い悲しむことすら、
人が生きている間にしかできない作業だから。

確かに自分の生涯と関わった全ての人に感謝の意を告げて、
死出の旅に赴ければ理想的ではあるでしょうが。

「感謝しなければならない」。
常識に強制されつつ絶命するのは本当に苦しい死に方です。
現世に未練が残りまくりです。

負の感情も吐く、吐き切って旅立つ。

終活を真摯に考える上では、死にゆく自身の心の救済のためにも、
後ろめたくてネガティブな感情へのケアも、もっと重要視すべきではないか。
私は常々そう思っています。

リビングウィル。実行しているのはまだまだ少数派という事実

私に限らず、誰しも「自分らしく生きて自分らしく死にたい」
そう希っていることでしょう。

しかしながら、万が一の際の自身の意思を明文化した、
リビングウィルを備え、
事前に自分自身の死に対する意思表明をきちんと行っている人は、
2019年現在で日本人全体の8%弱しかいないそうです。

私には家族や親類縁者がありません。
天涯孤独の身です。

老若男女関係なく、死とはいつ訪れるかわからない性質のものです。

いつ何が起きても、自分らしく終われるように。
いざという時に周囲の人が対応に困ってしまわないように…
事前に自分の気持ちをはっきり言葉にし、書面で示しています。

部屋の一番わかりやすい冷蔵庫に貼っているほか。

私は同じ内容のリビングウィルを何部も作成して、
主治医や訪問看護ステーションのスタッフ、薬剤師やリハビリの先生。
親しくして頂いている友人知人、
さらには仕事関係者、長い付き合いの編集者に至るまで…

「備えあれば憂いなし」。そう思ってお渡ししています。

誰しも予測不可能であり不可避な「死」だからこそ

こんなものを渡されたら困るかしら?
…そんなこと、私は一切思ったりはしません。

むしろ、私自身に何か起きた時には。
こう片付けて欲しい、こう対処して欲しい…

死に関わる私の願いを、リビングウィルという形で、
自分の意識が清明なうちに文書で明らかにし。

実際に自らの死期が近づき、
臨終を迎え、天に還るプロセスにおいて。

どうしても譲れない希望を事前にはっきりさせておいたほうが、
遺される人が後々困らないで済むのかと思っています。

…死んでしまったら。
私は何ひとつ自分の手続きができないのだから。

全ての処理を委ね、他人にお願いするしかないのだから。

あるいは。超高齢化時代を迎え、
かつてはあまり見ることもなかった認知症の人も増加の一途とか。

私自身が「自分を失い」恍惚の人となる可能性もあります。
皆様もです。

もっと言うなら…若い方だって。
バイク事故をはじめとする不慮不測の惨事に見舞われ、
生命の危険に晒され、頭の打ちどころが悪くて…

高次脳機能障害や遷延性植物状態に陥るケースも「想定内」。

今はきちんと自分自身について、
ご自分の状況を取捨選択しつつ判断できるあなただって…。

一切の希望も自身の気持ちを言い表せなくなる可能性は高いのです。

状況は変化し心は揺れ動く。終末期の希望も見直しが必須

超高齢化社会の到来や「人生100年時代」というキャッチコピーが…
しかし「単に長生きしても不安なだけ」という、
ある意味逆の「煽り」に結びついてしまい。

ゆえに「自分らしく生き抜いて、
自分らしく人生の幕引きをしたい」という切なる願いを…

私たち一人ひとりの胸のうちに、
確固たる信念として焼き付けることになりました。

高齢になっても元気なうちは自分らしく活躍したい、
社会的な一員でありたい、「現役」でありたい。

しかし、他人の手を煩わせるだけになり、
変な管に繋がれまくってスパゲティ状態になったり、
自分の口から食べることすらできなくなって気力も萎えたら…

その時は「自然の摂理」としての死を受け容れたい。

こんな願いも「人間」だからこそ。
そう見做す時、死を考えることは人生そのものを見ることであり、
人間の為せるわざそのものだといえるでしょう。

また。
人は弱く、覚悟を決めても常に心は揺れ動きがちです。

心が揺れても悩んでもいいと思います、
それこそ「人間の本質」だからです。

年を経るにつれ、自分自身の状況や背景が変化するにつれ、
自身の死生観や、終末期に対する希望も、
自ずと変化していくものです。

その辺りも踏まえて、冒頭に掲げたように。

何も変わっていないとは思っても、誕生日などの節目節目に、
自身の「本当の願い」に向き合い、
さらに自分の人生における「願い」を見直すことは大切でしょう。

死を考えることは生き方を鑑みる作業。いっぱい話をしよう

実際に「リビングウィル」を準備している方はごく僅かですが。

2019年の都の調査結果によれば、
都民のおよそ7割の数に迫る成人男女が「万一に備えて、元気なうちに、
自分の終末期に向けて何かしらの意思表明が必要」と回答。

そういった社会の流れを受けて。
ここ数年はただ単に「人生の終焉に対する希望」を、
自分の意識が清明な間に文書にして備える取り組みだけではなく。

今や、自身の終末期について家族や親しい人、医療関係者を交えて、
相談しておく「人生会議(アドバンス・ケア・プランニング、ACP)」も、
世間の注目を集めつつあります。

そういえば。
人生会議を推進するための厚労省のポスターがしかし。
がんで大切な人を亡くした遺族をさらに追い詰めるとされて、
問題になった事も私たちの記憶に新しいところです。

「人生会議ポスター」騒動でよくも悪くも、
アドバンス・ケア・プランニングが広く世間に認知されるように。

意外な結果ですが…人生も同じく「意外」な出来事の連続です。
考えさせられます…。

※人生会議ポスター騒動の顛末
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191225/k10012227761000.html

騒動のあとに残った「決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう」。

この言葉こそ、死に対する想い。
そして死と隣り合わせの「生」を如実に表しているようです。

ともすれば「死に方を指定するための」話し合いであり決め事。
そう誤解されることも多いリビングウィルであり「人生会議」ですが。

本来、生死は表裏一体、背中合わせなもの。
死を想うことは「生きる目的」を考えることでもあるのです。

生きることを考えるに等しいからこそ、
「決める」のではなく「いっぱい話をしたい」ものです。

自身が死に面した時の希望をはっきりさせることは。

同時に、私たち一人ひとりが自分の人生に何を望んでいるのかを、
明確にする作業だといっても過言ではないでしょう。

死も生も自然の摂理に過ぎず、私たち人間もそのなかに在ります。

縁起が悪いとか「病や死は怖い」などといって目を背けてしまわず。
生命ある以上…誰しも避けられない死だからこそ。

あなた自身の問題として、私の問題として、
人生の終末期を真摯に考えることは大切なはずです。

即ち、それは私たちにとっての「今」を考えることだからです。

報告する

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。